因果応報という仏教の言葉もあります。過去における善悪の業(ごう)によって、それに相当する果報を招くという意味です。
柿の種をまいたら柿の実がなります。そんなこと知ってるよと、誰もが口をそろえてききます。
それでは聞きましょう。いま何の実がなるのを待っているのですか。柿の実ですか。桃の実ですか。リンゴの実ですか。
そしてもう一度聞きましょう。待っているその実の種は自分でまいたのですか。
そして重ねて聞きましょう。まいたその種は良い種でしたか。
柿の種をまいたら柿の実がなります。桃の種をまいたら桃の実がなります。リンゴの種をまいたらリンゴの実がなります。当然のことです。
誰もが、いつも実がなるのを待っています。何かの実がなるのを待っています。待っている実は、いったい何でしょう。待っているその実の種を、ほんとうに自分でまいたのなら、何の実がなるかすでに分かっているはずです。
その実の種を自分の手でまいた記憶がないのであれば、実がなるのを待つのはとてもずるい考えです。なった実を手に入れる資格などありません。
原因があって結果があります。結果にはそれなりの原因があります。
種をまいたから実がなるのです。実がなったのは種をまいたからです。柿の種をまいたから柿の実がなるのです。柿の実がなったのは柿の種をまいたからです。良い種をまけば良い実がなります。悪い種をまけば悪い実がなります。
当然です。当然だと思うのは、因果法則は宇宙の法則だからです。
HMU 達弥西心